みなさんこんにちは、コクレポです。
ニュージーランドで、国名をアオテアロアに変えよう、またはニュージーランドと併用しよう、という動きがあるのを知っていますか?
この動きの背景には、何があるんでしょう?
ニュージーランドの歴史(~1840年まで)
ニュージーランドという現在の国名は、17世紀に訪れたヨーロッパ人によって名付けられました。
ヨーロッパから人々が到着するまで、それぞれのコミュニティーを超えた先住民族の総称は存在しませんでしたが、ヨーロッパから来た人々と自らを区別するためポリネシア語で「通常」を意味する「マオリ」という名称が先住民の間で使われるようになりました。
そしてマオリの人々は、ヨーロッパから来た人々を「パケハ」という名称で呼ぶようになります。
後に、パケハの人々とは、主にヨーロッパ人の祖先を持つ人々を指すことになりました。
19世紀には、ヨーロッパから来たキリスト教宣教師の活動も活発になった。
その当時、パケハ(主にイギリスからの入植者)と協調してきたマオリの人々は、新たにフランスがニュージーランドの支配に関心を示したことについて危機感を抱きます。
この際、これまでイギリス人宣教師との間で信頼関係が築かれていたことから、マオリはイギリスとの連携を目指します。
イギリス政府とマオリの首長が交渉を行った結果、1840年にワイタンギ条約が締結されました。
この条約では、主権をイギリスに譲渡してマオリの人々を外部の脅威から守ることや、マオリが保有している土地の権利を保障する代わりに、マオリの土地を買収できる権利(排他的先買権)をイギリスだけに付与することなどが定められました。
しかし、条約締結後、マオリとイギリスの間で領土や主権を巡るトラブルが勃発。
ワイタンギ条約内で交わされた「主権」の範囲をめぐり双方の見解が異なっていたという見方や、経済力を持ったパケハがマオリの土地買収を進めたことで想定以上にマオリの主権が奪われたことが原因であるとする見方などがあります。
いずれにせよ、マオリとパケハの間での主権や土地の権利をめぐる問題は、現代まで長く続くこととなります。
イギリスによる支配へ
ワイタンギ条約の後、イギリスによる土地の買い取りが進むにつれて、事実上ニュージーランドにおけるイギリスの「主権」の範囲は広がっていきます。
マオリの人々は、土地の売買に関する条約が守られていないとして、度々イギリスに訴えを起こしたが、聞き入られることはありませんでした。
イギリス人の裁判官がワイタンギ条約を法的に無効であると述べた事例は、マオリの人々の権利を無視してきたことの象徴とされています。
マオリの人々の土地はさらに失われ、場所によっては言葉や文化さえも失われる状況が作り出されていきました。
当時、土地を所有していなければ選挙に参加できなかったため、マオリの多くの人々は投票することができませんでした。
というのも、マオリの人々は、コミュニティーとして土地を所有していたため、投票権の要件である個人としての土地を持っていなかったんです。
最初の選挙では、5,849人の有権者のうち、マオリの人々はわずか100人程度でした。
マオリの人々への差別は20世紀に入っても見られます。
マオリの年金の受給額はパケハより25%少なかったり、マオリであることを理由に物件を借りることができなかったり、銀行や商店が「有色人種(マオリの人々)を雇わない」という方針を打ち出したりした事例もありました。
マオリの人々は、公衆トイレの使用を妨げられ、映画館やプールから隔離されることもありました。
また、バーでのアルコールの提供や散髪、タクシーの乗車が拒絶され、街の通りに「マオリ人お断り」と書かれた看板があることも珍しくありませんでした。
また、言語文化面でもマオリの人々に対する差別が。
ワイタンギ条約が締結されてから、植民地政府は教育に関する法律を制定し、初等教育制度を整備しました。
この時期、学校に通う児童や生徒は主にパケハで、マオリの子供は学校教育から疎外されました。
1867年に、先住民学校法が制定されたものの、その内容はマオリ語を話す児童に懲罰を課し英語教育を普及するという、マイノリティのアイデンティティなどを消していこうとする同化主義的な価値観が強かったです。
職場やスポーツをする上で英語が必要だったため、マオリの親は子供に英語を学ぶように勧め、西洋の生活スタイルに適応することを選ぶようになりました。
マオリの子供が英語のみで教育を受ける環境になっていったことで、20世紀中にマオリ語が消滅するのではないかという懸念もありました。
言語以外でも、植民地政府によってマオリの文化が影響を受けるようになります。
文化の代表例である伝統的なタトゥーは、階級や社会的地位、権威や名声の象徴とされ、デザインによって様々な意味を持っています。
しかし、キリスト教を布教したパケハの宣教師から「悪魔の芸術」と見なされたため、若い男性からの支持を失っていきました。
マオリの権利と文化の復活
ついに1947年、ニュージーランドはイギリス議会から独立した立法機能を持つようになり、マオリの権利と文化の復興に向けた動きが強まっていきました。
1970年代から、土地の没収に対する抗議運動が続出したことをきっかけとして、1975年にワイタンギ条約法が制定されます。
この法律に基づいて設置された法廷では、マオリの土地請求権や関連事項の調査が行われ、1990年代から、不当に没収された土地の返還と損害賠償の請求が始まりました。
一方で社会経済的な問題は根深く残っていて、平均寿命ではいまだにパケハと比較して短い傾向にあります。
選挙制度では、マオリの議席数も増加し、マオリの人々の公共政策や福祉を管轄する「マオリ開発省」も設置されました。
言語文化面については、1955年にマオリ教育委員会が設立され、マオリの人々が教育の中に正式に位置づけられます。
1980年代から、マオリ語のテレビやラジオ番組が始まり、ニュージーランドでテレビ放送が始まり、1987年、マオリ語は英語と並んで国の公用語と認定されました。
1960年から20年間にわたって、マオリの人々がテレビに登場したのは主に歌手などの芸能人としてであり、マオリ語で放送される番組はありませんでした。
しかし、マオリ語が公用語に認定された時期から、マオリの教育、文化や慣習を紹介する番組が現れ、マオリ語の普及や認知に大きな役割を果たしたんです。
2003年、政府はマオリ語の国営放送を公的資金で運用すると定めた法律を制定し、現在は2つのテレビ局がマオリ語で放送されています。
その他の文化的な側面においては、キリスト教宣教師による非難に苦しんだ伝統的なタトゥーは、1970年代から支持を獲得し、若者からの関心が高まります。
また2000年代に入ると、伝統的なマオリの衣装がフォーマルな場で着用されるようになりました。
前途多難
このように、マオリの地位や状況は少しずつ改善されてきてはいますが、マオリの人々は、非マオリ人と比較すると、依然として社会的及び経済的に不利な立場に置かれているのも事実です。
例えば、健康面や生活環境に関して、マオリ人と非マオリ人との間で大きな格差が残っています。
2012年の時点で、貧困状態で生活している国内の子供のうち半数以上がマオリの人々であり、失業率は年々上昇しています。
また、学校でマオリ語の教育が認められる環境が整ってきたとはいえ、2000年代に入るとマオリ語の話者は減少傾向にあります。
現在もマオリ語の使用に対して反発の声が非マオリ人から一定数上がっていて、マオリ語を使い続けている国内の放送タレントは、多くの誹謗中傷を受けています。
さらに、マオリの人々と文化に対する偏見が未だに残っているという問題もあります。
議会でマオリに対する侮辱的な発言がみられたり、議会の西洋的な服装規定に異議を唱え、ネクタイを着用しなかったマオリの議員が退席を命じられたりする事例が現在もあるんです。
このような差別や不利益に対する、一種のアファーマティブ・アクションとして、ある大学の医学部の入学試験では、優先的にマオリの学生を受け入れています。
コラム
マオリの人々は、世界の他の多くの先住民と比較すると、人口の割合が比較的に多いことや、文章化されたワイタンギ条約が結ばれたこともあって、社会的に保障されている部分もあります。
戦後に入って、マオリの文化が国内でも認知・受容されつつあり、政治や教育、メディアにおいても新たな取組が展開されてきました。
少数民族の問題は、下記の記事でも書いてるので是非読んでみてください。