FGM(女性性器切除)ってなに?現状とその背景・減少に向かう取り組みとは!

みなさんこんにちは、コクレポです。

みなさん、FGMって聞いたことありますか?女性の外部性器を切りつけたり焼いたりすることです。想像するだけで身ぶるいしてしまいますが、世界約30か国で少なくとも2憶人の女性がFGMを受けていて、毎日約6,000人の女性が新たなFGMの対象になっているんです。

今回はこのFGMをテーマに、どうしてこんなことが行われるのか、どんな対策がされているのか、そしてコラムでは私たちの日常にも、根底では繋がっている問題もあるんじゃないのかな、という話をしてるので、ぜひ最後まで見てみてください。

FGMを受けているお母さん。娘にはFGMを受けさせないと決めている。(写真:UNICEF Ethiopia/Flickr [ CC BY-NC-ND 2.0])

FGMの被害

FGMは医学的根拠に基づいたものではなく、女性の身体に大きな負担をかけています。FGMの被害として、大量出血や排尿、妊娠、出産への障害、破傷風などの感染症や精神的な病気、性行為時の痛みなどがあり、最悪の場合、死んでしまうこともあります。

そんな大きな危険を伴うFGMですが、多くは地域の長老など、医療的な訓練をきちんと受けていない女性によって、0歳から15歳ごろまでに行われます。

どうしてFGMは行われる?

女性への身体に利益はないと言われているFGMは、なぜ行われるんでしょうか?それにはいくつか理由があります。

まず、女性は結婚するまで処女を保ち、結婚して家庭に入るものという考え方や、女性の自立、主張は望ましくないという男性優位的な考え方で、FGMが行われていることがあります。

女性の性的衝動を抑制し、女性のセクシュアリティを管理するというのがFGMを行う目的となっているんです。

また、FGMの浸透、定着に伴って、FGMはもはや社会的義務であると捉えられるようにもなりました。FGMを実行する多くの地域では、FGMを受けなければ結婚できない、一人前の大人として認められないなどと考えられていて、FGMは女性の教育と結婚準備のために欠かせない成人式的な儀式であるとされているんです。

このような社会では、女性が結婚を通して男性に経済的に依存することで生計を立てていくことが通例となっていて、FGMを行うことが、女性が生きていくための手段にもなっているんです。

さらに、女性の性の管理という側面が、宗教的意味での処女の重要性とも重なって、その宗教が直接的にFGMを支持していない場合でも、その宗教の教えがFGMを正当化する根拠として利用されることもあります。

そのような観念も含めてFGMは「清いもの」、「美」を象徴するものと考えられている場合もあるんです。

2018年に国際連合経済社会理事会(ECOSOC)で行われたFGMに関する会議の様子(写真:UN Women/Flickr [ CC BY-NC-ND 2.0])

FGMへの取り組み

このFGM減少のために、各国ではあらゆる努力が行われています。

まず、法律による対策です。現在、アフリカではFGMが行われている国28か国中22か国でFGMの実施が法律で禁止されるようになりました。長く続いてきた伝統を変えるという点においても、FGMを禁止する法律の制定は簡単なことではありませんでした。

たとえば、西アフリカでFGMを禁止する法律を取り入れる国々が続くなか、リベリアでは2013年の時点で、女性の40%ほどがFGMを受けていましたが、長らくFGMを禁止する法律は制定されませんでした。

2006年に女性大統領として就任したエレン大統領は、女性の権利などをテーマに活動していましたが、彼女がFGMを禁止する大統領令に調印できたのは就任から12年経った2018年だったんです。

リベリアのエレン・ジョンソン・サーリーフ元大統領(写真:European Parliament/Flickr [ CC BY-NC-ND 2.0])

FGMが伝統として深く浸透している地域では、一方的な法律による規制だけではFGMをなくすことはできません。これまでの習慣を続けるべきだと考える人々にも納得してもらう必要があるんです。

そのため、伝統的指導者たちからの説明や説得は有効な手段となりえます。人々の信頼が厚く、国単位よりももっと小規模な地域単位で存在している伝統的指導者の意見は、法律や外部者からの意見より、住民は納得しやすいんです。

この伝統的指導者たちが協力し、FGM廃止を目指している動きもあります。

たとえば、2018年8月にケニアのナイロビではアフリカ17か国から指導者らが集まって、子供の結婚、FGM、有害な文化的慣行を終わらせる取り組みを議論し、学んだ内容を各指導者たちが自分の地域に持ち帰り、人々に広めていくという目的の会議が行われました

また、多くの宗教指導者たちもFGM反対の声をあげています。たとえば、ソマリアの宗教師イブラヒム・ハッサンさんは、「FGMはイスラム教によって支持されていない」と述べて、FGMを終わらせるキャンペーンに取り組んでいます。

FGMは宗教的に支持されているものではないと、宗教指導者が直に述べることは、人々の誤解を解くために重要で、法律という形ではなく、信頼のある指導者たちが直接人々に説くことは、FGMに対する意識を変えるために有効な手段なんです。

エチオピアで行われた母親同士のFGMの勉強会(写真:UNICEF Ethiopia/Flickr [ CC BY-NC-ND 2.0])

そうはいっても、FGMは長く続く伝統的慣習で、FGMを受けなければ一人前の女性として認められないという考えが人々に定着しているため、その廃止や人々の意識の改革は一筋縄ではいきません。

そこで、FGMの全てを否定するのではなく、その伝統性、文化的特性を理解、尊重して、「大人になるための儀式」という側面に重点を置いた、FGMに代わる新たな儀式の採用が拡大しています。

代替儀礼、ARP(Alternative Rites of Passage)トレーニングと呼ばれるもので、FGMとは何かという根本的な点から、その危険性などを少女たちに伝えるだけではなく、健康や文化などについても教育を行って、彼女たちが将来のために最善の選択をすることを目的としています。

また、政府や地域、宗教の指導者だけではなく、FGMの対象となる女性本人、母親、学校のレベルでも変化が起きています。近年では、FGMを受ける予定だった人々が自らFGMに抵抗し、反対する場合も増えています。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 80a5a94fad8b64c4f0af5fd919d272fc-1-e1556330607869.jpg
UNICEF Ethiopia/Flickr [CC BY-NC-ND 2.0]

昔と比べて多くの人が教育を受けられるようになったため、FGMについての知識を持つ母親も増え、自分の子供にはFGMは受けさせないという意思を持つ人や、自分の娘に自分と同じような苦しみを経験させたくないと考える人も増えています。

FGMを受ける対象となるような幼い少女は、自分の母親、姉妹などが当然のものとしてFGMを受けている状況下では、自分にもFGMは必要なんだと考えてしまいます。そこで近年では、学校レベルでFGMに関するセミナーを実施して、FGMの危険性を伝える活動なども行われています。

ケニアのある学校では、生徒たちが両親にFGMを廃止して自由に自分たちの生活を送ることを促す歌を歌う取り組みや、FGMから逃れてきた少女たちや、その親たちが加わったFGM廃止を求める行進を行うなどの活動が実施されています。

ケニアの少女たちによって行われた少女の権利のための啓発キャンペーン(写真:UN Women/Flickr [ CC BY-NC-ND 2.0])

このように、様々な人々の変化、努力によってFGMは減少に向かっています。

FGM実行率調査によると、特に減少が顕著であった東アフリカでは、1995年から2016年の間に71.4%から8%に減少しました。また、北アフリカでは1990年から2015年の間に58%から14%に、西アフリカでは1996年から2017年の間に73.6%から25.4%に減少しました。どの地域も10~15年の間に40%以上減少したんです。

長い道のり

このように様々な人々や組織の活動によって徐々に減少しているFGMですが、0%への道のりは遠いです。伝統として受け入れられているFGMを失くすことは容易なことではなく、その地域の文化、価値観への配慮が必要です。そのため、「正しい」とされるような知識だけを与えることはあまり効果的であるとは言えません。

法律だけで解決できるものでもなく、FGMを行う人々が本当にFGMは実施するべきではないと感じられなければ、法に触れるとは分かっていても隠れてFGMは行われ続けてしまいます。

FGMに対抗する少女たち(写真:UNICEF Ethiopia/Flickr [ CC BY-NC-ND 2.0])

コラム

FGMを題材とした映画もあって、お母さんはこの伝統に反対していて、村の人たちから説得されても娘を守っていましたが、留守の間、村の人たちが娘を連れて行き、きちんと消毒もされていないカッターのようなもので、女の子を複数人で押さえつけ切っていたシーンがありました。聞くだけでぞっとしますよね。

でもこのFGMの問題って、実はただ遠い世界の問題ではないのかなって思います。

FGMは伝統や慣習が分かりやすくひどい形で表れたものですが、たとえば、日本でもお正月、おせちを作ったり運んだりするのはおばあちゃんやお母さん、娘たちで、お父さんやおじいちゃんはその間お酒を飲んでおしゃべりして待っている、という状況ありませんか?

このようなよく見かける光景だって、根底は同じように、長年の伝統や慣習が表れているものではないでしょうか。

男は泣くな、とか、女の子なんだから片付けしなさい、とか、長年当たり前に言われてきたこと、行われてきたことも、伝統だから。慣習だから。の一言で終わらせるんではなく、これってなんでそう言われてるんだっけ、本当にそれでいいのかなって、考え直すことって大事なんじゃないかな、と思いました。

みなさんはどう思いましたか?ぜひコメントで教えてくれたらうれしいです。

タイトルとURLをコピーしました