東京オリンピックに出場しベラルーシの陸上選手が8月5日、ポーランドに亡命しました。
チマノウスカヤ選手は、チーム内での不満をSNSに書き込んだところ『政権批判だ』として強制送還されそうになっていました。
その矢先、ベルラーシの反体制派活動家の男性が隣国ウクライナで首をつった状態で死亡しているのが見つかったりと、不穏な雰囲気のベラルーシ。
一体ベラルーシってどんな国なんでしょう?
同国大統領アレクサンダー・ルカシェンコは、20年以上の期間に渡ってベラルーシ大統領の座に居座り続け、「ヨーロッパ最後の独裁者」と呼ばれています。
反体制派に対する強い弾圧と深刻な人権侵害で悪名高いルカシェンコ政権ですが、強権的な国内政策と同時に注目しなければならないのは、彼の巧みな外交政策です。
EU、ロシア、中国と、様々な大国とうまく関係を調整しながらその政権を維持するルカシェンコ大統領。
以下では、ベラルーシをめぐる国際関係について、各国の思惑に迫りながら深く見てみましょう。
ベラルーシとは?
ベラルーシは、東ヨーロッパに位置する人口約940万人、面積20万7600㎢の内陸国です。
下の地図から明らかなように 、アメリカや西欧を中心とする北太平洋条約機構(NATO)とロシアに挟まれた、地政学的に重要な位置にあります。
歴史的に見れば、ベラルーシ人が独立国を持った期間はあまり長くなく、モンゴル帝国、ポーランド・リトアニア公国、ロシア帝国と、様々な国の統治下の地域でありながらその民族的アイデンティティや言語を維持してきました。
革命によりロシア帝国が崩壊すると、一時ベラルーシ人民共和国として独立しましたが、この政権は短命に終わり、わずか数年後に成立したソビエト連邦に加盟することになりました。
ベラルーシが再び独立国の地位を得るのはソ連崩壊後の1991年です。
その3年後の1994年には第一回大統領選挙が実施され、他候補者に対する圧倒的な得票差のもと同国初の大統領が誕生しました。
現在も続くルカシェンコ政権の始まりです。
20年以上続く独裁体制
アレクサンダー・ルカシェンコは、1980年頃から政界に進出し、1990年に国会議員に当選しました。
当初からどちらかといえば親ロ的なスタンスを取っていて、1991年のソ連の解体に反対した当時唯一のベラルーシ議員です。
高い国民支持により政権についたルカシェンコは、着々と自分の権力を強化していきます。
まず、1996年には、国民投票により憲法を改正して、議会と憲法裁判所に対する大統領の権限を優位性を高めました。
さらに、2004年には再び憲法を改正して大統領の三選禁止規定を削除し、自身が大統領の座にあり続けることを可能にしました。
その後、2015年の選挙で当選したことで、その政権は5期目を迎えています。
彼の長期政権を非難する国民の声も多く、政権に批判的な政治家や活動家が度々抗議デモを起こしていますが、いずれも警察によって弾圧されていて、政権が揺らぐ兆しは全く見られません。
2000年代の外交:EUからの経済制裁を無視
石油資源を背景に諸大国を味方につけているサウジアラビア(以前の記事を参照)や、ロシアのサポートを背景に反体制派と抗争を続けるシリアのアサド政権のように、強力な権威主義政権というのはだいたい、力のある外国と協力関係にあります。
では、ルカシェンコ政権を支持している大国はどこでしょうか。
この質問に答えるのはかんたんではありません。
伝統的に最もつながりが深いのは、元宗主国でもあるロシアです。
でも、ロシア一国依存にはなるまいと、EUや中国といった他の大国ともうまく経済的友好関係を結んでいるのが、ベラルーシ対外政策の特徴です。
以下で、ルカシェンコ氏が政権についた1994年以降のベラルーシをめぐる国際関係を概観してみましょう。
まず、 政権発足当初のルカシェンコは親ロ的な立場を取っていました。
例えば、1999年にはベラルーシ・ロシア連合国家創設条約を結んでいます。
そのたった10年前に多くの東欧諸国がソ連からの独立を切望して次々と革命を起こしたばかりであることを考えると、ロシアとの再統合を求めたベラルーシないしルカシェンコのスタンスがいかに珍しいものであったかが見て取れます。
もっとも、ロシアの指導者が強硬派のプーチン大統領に変わってから、連合国家創設の動きは停滞し、現在に至るまで実現してはいません。
とはいえ、石油などエネルギー資源をロシアからの輸入に依存していたこともあり、ベラルーシはしばらく友好的な対ロシア外交を継続することになります。
2010年代の外交:ロシア一国依存からの離脱
以上のように、2000年代のベラルーシ経済は、大雑把にまとめると、ロシア一国依存であったといえます。
こうした対外政策が変化するのは2010年代に入った頃です。
きっかけとなった出来事はいくつかありますが、主要な要因の一つはロシアのクリミア侵攻です。
ロシアは、ウクライナ南部のクリミアで2014年に起きた軍事衝突に際して、ロシア系住民を保護するという名目で軍事介入を行い、同地域を併合しました。
こうしたロシア軍事行動は、ベラルーシを含む旧ソ連地域に警戒心を抱かせる結果となりました。
このウクライナ危機のほか、2010年までに両国間に計3回生じたエネルギー係争などの出来事に影響され、ベラルーシはロシアと距離を取って西側に接近する方向に舵を切ります。
早速、ルカシェンコは長らく拘束していた6人の政治犯を釈放し、野党や反政府的な新聞への規制を緩和し、さらに野党側の候補者が選挙のプロセスに参加することを許すなどしました。
さらに、EU加盟国やアメリカ国民のビザ要件を解除し、西側諸国との友好関係を築く意思を明確に示しました。
EU側のもっとも大きな動きは、2016年にベラルーシに対する制裁措置のほとんどを解除したことです(武器輸出の禁止のみ継続)。
EU側の文書によれば、それ以前の大統領選挙が野党側の暴力的な弾圧を伴っていたのと異なり、2015年の大統領選挙が暴力を伴わず遂行されたこと、およびルカシェンコ政権が6人の政治犯を釈放したことから判断して、制裁を解除したといいます。
これは、EUが当初求めていたほどにベラルーシの人権状況が向上したことを意味するんでしょうか?
事実を見る限り、イエスとはいえません。
2017年には、税法に反対する大規模なデモが暴力的に弾圧され、数百人の市民が逮捕されるなど、政権批判を許さないシステムは依然として健在です。
こうした人権侵害の状況をEUはどう見ているんでしょう?
この点についてEUの外交官が語るところによれば、ルカシェンコは改革を行わなければならないが、ウクライナの二の舞にはならないよう、改革を急かすことはしないとのことです。
ウクライナでは、親ロ的なヤヌーコヴィッチ政権が転覆されたことをきっかけに、ロシアがクリミア地域に軍事介入を行い、情勢の不安定化が生じました。
EUとしては、ベラルーシ内の改革を急いでロシアを刺激するよりは、一時的に同国内の人権問題に目をつぶって、自陣営側に抱き込もうとする意図もあるようです。
ベラルーシの行く先
今回の事件で明らかになったように、未だに人権侵害は続いています。
今回の事件で大々的に報道されたことから、各国経済制裁を発動しましたが、これまでベラルーシ政府が改善に向けて行動する兆しはほとんど見られず、諸外国も人権問題を先送りにしてきました。
これを可能にしているのが、ベラルーシを取り巻く複雑な国際関係と、それをうまく利用したルカシェンコ政権の外交政策なんですね。