アフリカ初債務不履行:ザンビアが抱える経済問題の背景

みなさんこんにちは、コクレポです。

コロナ禍で多くのアフリカの経済が打撃を受ける中、2020年11月にはザンビアはアフリカで初めて債務不履行に陥りました。

ザンビアが抱える経済問題の背景にはなにがあるんでしょう?

歴史的背景とともに経済の状況について詳しく見てみましょう。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: 5c2f2f0aa3a7633c535828b31fab707f.png

独立前の歴史的背景

現在のザンビアの領域とその周辺では、古くから様々な民族や王国が形成されてきました。

数10万年以上前からバトワやコイサンと呼ばれる狩猟採集民が長く居住していましたが、15から19世紀にかけて、主に現在のコンゴ民主共和国南部やアンゴラ北部から鉄や家畜を持つバントゥー系民族が多く流入し、先住民は追いやられたり吸収されたりしました。

そして時間とともに様々な民族グループや王国等の政治組織に発展していきます。

主要な王国として現在のコンゴ民主共和国からザンビア東部にたどり着いたチェワ王国、北部ムウェル湖周辺の肥沃な土壌を支配したルンダ王国、北の中央部に展開していたベンバ王国、南部のザンベジ川沿いで肥沃な土地を持っていたロジ王国(別名バロツェ王国)が存在していました。

このように多様な王国などが存在していた歴史的背景もあり、現在ザンビアには73もの異なる民族グループや言語グループが存在しています。

その後、世界に蔓延していた奴隷貿易がこの地域にも打撃を与えていくことになります。

アフリカ海岸付近から始まったこの貿易では、多くの人々が捕らえられ、奴隷としてヨーロッパや南米アメリカ、アラブ諸国へ「売買」されました。

1700年代後半、ザンビア東部などの内陸部にもついに奴隷貿易が広がっていきました。

奴隷を求める側の勢力は民族間の対立を利用して、ライバルグループから奴隷を狩るよう仕向けるなどし、民族間での争いや紛争が多発するようになりました。

その後、19世紀には世界的に奴隷貿易が禁じられ、植民地化とともに奴隷貿易は終焉します。

1889年、現在の南アフリカに拠点を持っていた植民地政治家セシル・ローズ氏は、イギリス南アフリカ会社(BSAC)を設立しました。

翌年以降、南部アフリカから金などの鉱物資源を求め、準軍事的な組織を用いて北へと進出し、その土地の鉱物資源を採掘し始めました。

現在のザンビアとジンバブエにあたる地域は、ローズ氏の名をとってローデシアと名付けられ、それぞれ北ローデシア、南ローデシアとしてイギリスの植民地になりました。

当時、ベルギーの国王が中央アフリカを占領し、コンゴと北ローデシアとの境目ができたため、イギリス系勢力は南アフリカからコンゴまでの南部アフリカ地域を手中に収め、南北に分けて植民地経営を行いました。

またポルトガルは以前から、現在のザンビアの東西にある地域を海岸付近から徐々に内陸に進出していき、植民地化していました。

このようなポルトガルによる支配を受けていた、現在のモザンビークとアンゴラにあたる地域は、北ローデシアを東西で挟む形で植民地の境界線ができました。

このようなヨーロッパ勢力によって、もともと存在していた王国が新たな境界線により分断され、植民地化の過程で国境線が引かれました。

BSACは北ローデシアを東西に分け、西北ローデシア(バロツェ王国)と東北ローデシアとして支配していました。

BSACの管理下におかれたこれらの地域は、1899年と1900年にそれぞれイギリスの保護領となりました。

1900年以降、この二つの地域は植民地支配の一環として現地の人々に自給自足の生活をやめさせ、鉱山での労働力を確保するためにも、鉱山などの労働でしか得られない現金が必要となる税金を課した

そして、西北ローデシアと東北ローデシアは1911年に統一され、1924年には北ローデシアがBSACから引き継がれて正式にイギリスの植民地になりました。

1953年には現在のザンビアにあたる北ローデシアと現在のジンバブエにあたる南ローデシア、現在のマラウイにあたるニヤサランドがイギリス系勢力によって連邦化されました。

連邦政府は北ローデシアの教育や農業などの政策をほとんど行わなかったり、イギリスからの入植者が集中していた南ローデシアを優遇する政策を取ったりしたため、1950年代後半から連邦政府はうまく機能しなくなりました。

この時期から北ローデシアでは植民地支配に対する抵抗が強まっていき、独立へと向かうこととなります。

1958年にケネス・カウンダ氏による統一国家独立党(UNIP)が結成され、イギリスがアフリカの各植民地から撤退し始めた時期とも合わさって、1963年に連邦が崩壊しました。

北ローデシアでは、植民地時代に東北ローデシアとして支配されていたザンビア東部に権力が集中していましたが、独立への流れの中、西部のバロツェ王国とも協定を結びました。

1964年10月、ザンビア共和国として独立するとともに、北ローデシアの政府首相であったカウンダ大統領が初代大統領として就任しました。

植民地からの解放を示すモニュメント(写真:Virgil Hawkins)

独立後のザンビア

UNIPはザンビア独立後、1964年から1991年までの長期間にわたり、政権を握ります。

1972年、カウンダ氏がUNIP以外のすべての政党を禁止し、ザンビアは一党制の国家になりました。

UNIPが唯一の合法的な政党であったため、選挙は行われても投票できる党は1つしかないという事態が発生し、他の政治勢力を抑えていきました。

これに伴ってザンビア政府は権威主義に走ることになります。

国内で政権を批判するものや政敵に対しては大統領が裁判なしで拘束するなどの措置をとりました。

強権的な政治に発展していったものの、多民族国家を統治するためにカウンダ氏は「1つのザンビア、1つの国(One Zambia One Nation)」のスローガンを掲げ、民族間の政治的バランスをとるという信念を徹底して貫いていました。

カウンダ氏は周辺諸国の解放にも目を向けていました。

自国だけでなく、植民地からの独立をまだ成し遂げていない南部アフリカ諸国の独立運動の支援に尽力しました。

たとえば、1975年までポルトガルに支配されたモザンビークやアンゴラの解放運動を支援していました。

また南ローデシアの白人統治に抵抗する勢力を支援し、南アフリカのアパルトヘイト政策に抵抗していたアフリカ民族会議(ANC)の本部をザンビアの首都ルサカに受け入れるなどしました。

経済面において、ザンビアは独立当初比較的安定した成長を見せました。

植民地として支配された間、イギリスがザンビアの鉱物資源などを搾取していましたが、1国として独立を果たすと、ザンビアのあらゆる資源・財源をザンビアのために使用できるようになりました。

1964年から1970年にかけて銅価格が上昇したことも相まって、銅資源が豊富なザンビア経済は急成長します。

銅資源による財源を用いて病院や大学を建てるなど、さまざまな社会サービスが発展しました。

しかし1970年半ばから1980年頃、銅価格が暴落したことでインフレが急速に進み、ザンビア経済は悪化します。

1983年にアメリカを訪問するケネス・カウンダ氏(写真:A1C William M. Firaneck)

多党制による民主主義

経済の停滞と独裁政権への市民の不満が高まっていたことを受け、1991年8月にカウンダ政権は一党制を廃止し、多党制の選挙を認めました。

1991年10月には、新たな多党制での大統領選挙を実施し、カウンダ政権に代わって、ザンビア労働組合会議の代表であり、多党制民主化運動(MMD)のフレデリック・チルバ氏が勝利しました。

当時経済が落ち込んでおり、財政破綻していた国営企業もあったため、チルバ氏は鉱山企業などの大規模で生産性の低い企業の多くを民営化しました。

しかしここにも問題が。

民営化で外資系企業に鉱山の採掘権を譲る過程で、政府関係者が外資系企業などから賄賂を受け取り、外資系企業にとっても有利な条件での採掘権の付与が行われたんです。

これによりザンビアの財政は持ち直すどころか、鉱物資源という富が外に流出するシステムができてしまいました。

民営化などの一連の動きもあり新政権の問題が注目されると、他の政党が台頭するようになりました。

ザンビアの国会議事堂(写真:Virgil Hawkins)

このような中、国家開発のための統一党(UPND)という新党が1996年に誕生します。

アンダーソン・マゾカ氏率いるUPNDは2001年の選挙で与党MMDに僅差で敗れました。

一方で2002年にはマイケル・サタ氏が愛国戦線(PF)を結成し、急速に成長します。

2006年には、ハカインデ・ヒチレマ氏がUPND党首に選ばれ奮闘するも、2011年の大統領選挙でPFのサタ氏は与党MDDに勝利しました。

サタ氏の任期中にPFは大きく成長したものの、失業率の軽減や社会経済政策の改善など選挙公約として掲げられていた一部の事項が実現されなかったことで国民の不満が高まっていました。

現役中のサタ氏が死亡したことで、2015年に選挙が行われ、PFのエドガー・ルング氏が大統領に就任しました。

ルング政権は既存の道路の改良や学校の建設など多くのインフラ整備を行いました

しかしその一方で銅価格の低迷などによって経済は悪化し、2020年の新型コロナウイルスの流行でさらにザンビア経済に悪影響を及ぼしています。

そして2021年8月に行われた大統領選挙で、PFのルング氏が38%(181万4,201票)の得票率に対し、UPNDのヒチレマ氏が57%(281万1,757票)の得票率で勝利しました。

UPNDにとって過去5回にわたる大統領選失敗後の勝利でした。

ハカインデ・ヒチレマ氏の大統領就任式(写真:ChaloNiZambia / Wikimedia Commons [CC-BY-SA-4.0])

ザンビアの鉱物資源

このようにザンビアでは政権交代を繰り返してきましたが、常にその背景にあったのが経済上の課題です。

ザンビアは深刻な貧困問題を抱えており、人口の92%がエシカルな(倫理的な)貧困線である1日7.4米ドル以下で生活しています。

現在、ザンビア経済を支えているのが銅やコバルトを中心とする鉱物資源ですが、ザンビアで暮らす人々は実際にどれほどその恩恵を受けられているんでしょうか?

1990年代から鉱山の民営化が進んだことにより採掘権が外資系企業に有利な条件で譲られた問題を背景に、現在もザンビアは、外資系企業に対する課税などを通じて鉱物資源の恩恵を受けることにも難航しています。

鉱物を採掘する外資系企業は、鉱山使用税(ロイヤルティ)や法人税などの他の税金を払う義務がありますが、外資系企業の参入なしには鉱山開発を行えないことを逆手にとり、外資系企業が交渉などを通じて極端に低い税率を求めてきました。

たとえば、鉱山が民営化された当初、鉱物資源のロイヤルティが0.6%に設定されました。

その上、様々な税金免除の措置も与えられ、鉱山からの税収がとっても低くなりました。

その後、法改正が繰り返されてきましたが、ロイヤルティを引き上げようとすると採掘に関わる企業から強い抵抗に直面するということが繰り返されてきました。

2021年現在では、ロイヤルティは銅の価格に合わせて、5.5%から10%の間に変わる仕組みになっています。

また、そもそも設定されている税率が低いために税収が低くなってしまう問題に加えて、不正行為による利益移転の問題もあります。

タックスヘイブンと、それを通じて行われる不法資本流出の問題です。

詳しくはこちらの記事:なぜ途上国は貧困から抜け出せない?闇すぎるタックスヘイブン問題とは?

鉱山会社は税率の低いタックスヘイブンに構える関連会社に低い価格で銅を「販売」するという形をとることで、ザンビアで納める税金を少なくすることができます。

不正な貿易価格設定の流れ

秘匿性の高いタックスヘイブンの仕組みを通すと、取り締まることがとても難しいです。

こうした租税回避や脱税、免税措置などでザンビアが毎年30億米ドルの税収を失っていると推測する調査もあります。

2018年、ザンビアでは鉱業部門における企業の租税回避行為を減少させるために、外資系企業がすべての関連当事者取引を文書化し、証明しなければならないという規則を定めました。

企業の利益移転による不法資本流出を防ぐことが目的です。

また、ザンビアでは鉱山会社などの関連会社に対して、二者間で取引が行われた場合の想定価格である独立企業間価格の使用を要求しています。

ザンビアがこのような問題を阻止するために用いているツールは、既に損失した税収の一部を回収できたという事例も報告されています。

ザンビアのンチャンガ銅山(写真:BlueSalo / Wikimedia Commons [CC-BY-SA-3.0])

さらにザンビア各地の鉱山では汚染問題も発生しています。

たとえば、2021年1月にはヴェダンタ社所有の銅山により地域の水源が汚染され、その影響を受けた周辺地域の住民が訴訟を起こしました。

約20年にわたって、銅山から出た有害物質は地域の水源を汚染し続け、人々の生活や環境を侵害しています。

2,500人以上の地域住民が鉱山会社を相手取って訴訟を起こしました。

国内の環境汚染の責任に対して具体的な取り決めがないことも、このような汚染が長く放置されていたことの背景として考えられます。

ザンビアの経済状況と債務問題

ザンビアでは鉱物資源が経済を支えているため、世界の鉱物資源の需要に応じて、鉱山産業だけではなく経済全体が大きく影響を受けてしまいます。

たとえば、1970年代半ばにオイルショックで世界の経済が停滞し、主要輸出品である銅の価格が下落しました。

銅価格の低迷が続いたことにより、ザンビアは徐々に増大する債務を抱えることになります。

1990年代半ばには、一人当たりの対外債務がおよそ8.74米ドルと世界で最も高い水準になりました。

1990年代以降、中国の経済成長が進むなどしたため銅の市場価格が上がり、ザンビアでも経済成長が見られました。

2003年以降、経済の好転とともにザンビアの財政状況も改善したため、年間債務の減少が見られました。

しかしそれまでに積みあがったザンビアの債務は膨大で、2005年4月に世界銀行が38億米ドルの債務救済政策を実行して、ザンビア債務の50%以上を帳消しにしました。

2008年頃リーマンショックで世界規模の金融危機が発生し、多方面の資産価格の暴落により世界経済が縮小しました。

これにより銅の需要が下がった結果銅価格が暴落し、再度ザンビア経済に影響を与えました。

2005年の救済政策以降、ザンビアでは2008年を契機に再び債務が積みあがっていき、2020年3月には商品価格の低迷や新型コロナウイルスの流行などにより、経済が打撃を受けました。

2020年6月時点で国内外の公的債務は約270億米ドルに及び、そのうち168.6億米ドルは国外保有でした。

対外債務についてはその4分の1が、中国企業がザンビア企業と秘密裏に取引して保有したものであり、ザンビアは現在中国企業に対して約30億米ドルの債務を負っています。

そして2020年11月、対外債務残高の対GDP比は100%を超え、ザンビアはアフリカで初めて債務不履行に陥った国になりました。

鉱山で働く人々(写真:Virgil Hawkins)

財政問題の解消へ?

2021年8月に当選を果たしたヒチレマ氏は、債務やコロナ禍で低迷した経済状況を引き継ぎましたが、彼に対する期待が高まっています。

債務問題を最重要課題とし、国民に雇用とより良い生活をもたらす経済の回復のためには大胆な行動が必要であると述べています

ヒチレマ大統領は複数のビジネスを所有・運営する実業家で、ザンビアに持続可能な財政基盤を築き、ザンビアに投資してくれる人との関係を築く意欲を示しています。

また、ザンビア政府は財政再建のために財政赤字を削減し、復興支援を受けるための国際通貨基金(IMF)の融資プログラムに参加しています。

でも、IMFのプログラムはあくまでも一時的な救済措置にしかなりません。

さらに、IMFは過去にザンビア政府に対して出費削減などの条件を課していて、債務が削減されたものの、保健医療や教育などの公共サービスの出費が削減され、貧困が助長されました。

現在、IMFはそのような一方的な条件を突き付けてはいないという見解もありますが、現時点ではIMFは十分に現状を見通せていないともいえます。

コラム

ここまで見てきたように、ザンビアは豊富な鉱物資源を有する一方で、様々な理由でその恩恵を十分に受けていません。

その結果、定期的な政権交代が行われている一方で経済は不安定で、深刻な貧困問題を抱え続けています。

鉱物資源の価格の変動や国外に流出する資本の大きさなどの問題が積み重なっていて、ザンビアの債務が少しずつ減ったとしても、完全な経済問題の解決まではまだ遠いでしょう。

今後、成長の兆しがある観光業や農業にさらに力を入れつつも、外資系企業に対して自国の富と産業を守り抜くことができるかどうかが課題です。

でも、タックスヘイブンに対する世界的な税制度の改革などザンビア政府のコントロール外の問題も多く存在します。

2021年に就任したヒチレマ大統領がこれからどのような政策を行い、ザンビアの経済を復興していくのか注目です。

タイトルとURLをコピーしました