平和の祭典?メディアが伝えないオリンピックの非平和的な真実とは?(1)

みなさんこんにちは、コクレポです。

東京オリンピックが開催されるのか、毎日ニュースになってますね。

「平和の祭典」、オリンピック開催が近づくとこの言葉をよく耳にするようになります。

オリンピック憲章の根本原則は、その目的について「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」と定めています。

でもメディアを中心にその平和的側面だけが強調されるようになって、いつしかオリンピックは「平和の祭典」と呼ばれるようになりました。

でも、果たして本当にそうなんでしょうか?

必ずしも「平和」とは言えない側面が存在するのではないでしょうか?

そしてメディアは、そのオリンピックの真の姿を映し出していると本当に言えるんでしょうか?

今回・次回の記事で探ってみましょう。

オリンピックマークのモニュメント(写真:InspiredImages / pixabay

オリンピックと平和の歴史

オリンピックの起源は今から約2,800年前、紀元前776年に古代ギリシャのオリンピア地方で開催された競技会まで遡ります。

古代オリンピックは神々の父と信じられていたゼウスに捧げられた宗教的祭典であり、現在と同じく4年おきに開催されていました。

古代オリンピックも、現在のように「平和の祭典」とされていたんでしょうか?

その答えは「平和」の意味によります。

そもそも平和ってなんなんでしょう?

「単に暴力が起きない」というだけではなく、「協力や対話によりその状態が永続する」という意味もあり、その両方が備わった状態を「平和」とする定義が存在します(※1)。

※1 平和学者ヨハン・ガルトゥングは平和には2つの種類があるとしています。あらゆる暴力がない状態を「消極的平和」(Negative Peace)、協力や平等、対話のある状態が永続的に続くことを「積極的平和」(Positive Peace)としました。この記事では、その両方が実現している状態を「平和」としています。

古代オリンピック期間中は停戦協定が結ばれ、周辺の全ての紛争が一時中断されていました。

このことから、暴力が起きないという意味では平和を重んじているように思われます。

でも、大会で実施された競技は戦車競走や乗馬、槍投げといった戦争で実際に使用される乗り物・動物・武器を用いたものや、ボクシングやレスリングを中心とする格闘技など、戦争を意識したものが多かったです。

実際、古代オリンピックは戦争の準備として利用されていたという指摘もあります。

これらのことを鑑みると、決して平和的とは言えません。

その後古代オリンピックの伝統は、競技の追加や参加資格の拡大など発展を遂げながら12世紀あまり続きました。

でも西暦393年、ローマ皇帝テオドシウスがキリスト教を国教とし、全ての「異教」の祭りを禁止したことで、その歴史は終焉を迎えます。

古代オリンピックの格闘技の様子を描いた美術作品(写真:Antimenes painter / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])

それから約1,500年後、フランスの教育者であったピエール・ド・クーベルタン氏の働きかけによって、オリンピックは復活の道を歩み始めます。

クーベルタン氏は単なるスポーツの祭典ではなく、スポーツを通じて平和の実現に寄与することをその目的に掲げました。

冒頭で述べた通り、オリンピック憲章にもそのことが記載されています。

この時初めてオリンピックと平和が結び付けられました。

現代オリンピックの始まりです。

オリンピックの非平和的起源と仕組み

こうして現代オリンピックは、「平和」というもっともらしい理念を掲げ復活しました。

でももう一度問います。

オリンピックは本当に「平和の祭典」なんでしょうか?

まず、現代オリンピックの設立意義について考えてみましょう。

先に述べたように、クーベルタン氏はオリンピックの目的として世界平和を掲げました。

でも、彼の描いた「平和」には疑問を抱いてしまいます。

実は、彼はかなりの白人至上主義者で、「人種はそれぞれ価値が異なり、他のすべての人種は優れた本質を持つ白人に忠誠を誓うべきである」という発言を残しています。

同時に、クーベルタン氏は自らを「狂信的な植民地主義者」とも称していて、「フランスの植民地時代の栄光を取り戻せ!(Rebronzerla France!)」というスローガンのもとフランスの植民地拡大を画策していました。

さらに、クーベルタン氏はドイツのナチス党の熱烈な支持者でもあり、1936年に開催されたベルリン五輪については「ヒトラーの熱意とリーダーシップがもたらした、素晴らしい大会」と絶賛しています。

以上のことから、クーベルタン氏の描く「平和」には大きな偏りがあったと言わざるを得ません。

彼がオリンピックを復活させた背景には、白人の優勢を示し、ヨーロッパの団結を強めて帝国を拡大していくという目的があったのではないかという指摘もあります。

なので現代オリンピックは、偏った思想のもとに設立されたものであると言えるんんです。

1936年ベルリン五輪。表彰式でナチスの敬礼をしている。(写真:Stempka / Wikimedia Commons [CC BY-SA 3.0])

加えて、聖火(※2)の非平和的な起源についてもお話します。

※2 日本語では「聖火」ですが、英語や他の言語ではオリンピック・トーチ(Olympic Torch)やオリンピック・フレーム(Olympic Flame)などと呼ばれていて、「聖なるもの」という意味合いはありません(トーチ:松明、フレーム:炎の意)。

現在、聖火リレーはオリンピック開催を盛り上げる上で欠かせない一大イベントとなっています。

でも現代オリンピックの開催当初から実施されていたわけではなく、1936年のベルリン五輪から導入されたものです。

それはなぜでしょう?

現代と同じように大会を盛り上げるという理由もありますが、実は他にも重要な目的がありました。

聖火リレーを通じてドイツの威厳を世界に向けて示す一方で、ドイツ国民、特に若者をナチス党へ惹きつけるためのプロパガンダとして利用しようというナチス政権の思惑があったんです。

これに関連して、最近ではアメリカで2021年開催予定(2021年5月20日現在)の東京五輪の放映権を持つNBCが、聖火リレーについて「ナチスの宣伝活動に由来するような伝統は廃止されるべきだ」と訴える寄稿文を掲載し、話題となりました。

次に、大会の仕組みを見てみましょう。

スポーツの性質上、オリンピックは他者との協力ではなく、競争の場です。

選手を競わせ、勝敗を明らかにし、順位をつけることは、調和や協調を意味する「平和」と相反するものともいえます。

さらに、その種目についても検討する必要があります。

現代オリンピックにも、古代オリンピックで見られたような、戦争と関連する種目が存在します。

戦車競走はなくなったものの、射撃やアーチェリー、フェンシングといった武器を使用する種目もあります。

また相手を攻撃するという意味で暴力性を伴う格闘技にはレスリングやボクシング、柔道、空手、テコンドーなどさまざまなものがあります。

その技術を競うスポーツとしての存在価値を否定しているわけではありません。

でも「平和」をそのスローガンとして掲げる大会で、暴力性を内包し、戦争と関連付けうる競技を実施すること、そこには大きな矛盾があるんじゃないでしょうか。

オリンピックの射撃種目の様子(写真:The U.S. Army / Flickr [CC BY 2.0])

ナショナリズムを促すオリンピック

オリンピックの非平和的側面はその起源や仕組みだけではありません。

ナショナリズム(※3)を助長するという非常に重大な問題もあります。

※3 ナショナリズムとは、国家または民族の統一・独立・発展を推し進めることを強調し、他国や他の共同体に対する独自性優越性を確保することを目標とするイデオロギーです。一般に、自国の献身的な愛、支援、防衛を意味する愛国心とは区別されます。しかし両者には類似点が非常に多いため、2つを区別することは難しいとする見解もあります。

オリンピックでは、2016年から導入された難民選手団(※4)を除く全ての選手は、一個人としてではなく一国の代表として参加しなければいけません。

※4 難民選手団(Refugee Olympic Athletes)とは、難民となり母国から出場ができない選手で構成された複数地域の混合チームです。2016年リオ・デ・ジャネイロ五輪から導入されました。

国単位でその勝敗を競い、メダル数も国別でランキングされます。

観客も他の国を「ライバル」もしくは「敵」とみなし、自身の母国に所属する選手を応援します。

そして各国政府やメディア、各企業もまた自国の応援を促します。

その様子はまるで、国の美徳を競っているかのようだという指摘もあります。

このように国単位でチームを構成し、選手や観客の帰属意識を高める性質は戦争と共通しています。

国際的なスポーツ大会では、国民の一体感や他国への反感が高まる傾向にあるということが多くの研究で示されています。

オリンピックが「射撃のない戦争」と揶揄されるわけです。

同時に開催国は開会式や閉会式、表彰式などを通じて自国を最大限にアピールし、自国の威厳を高めています。

これもナショナリズムを助長する要素の一つと言えます。

また「自分たち」と「それ以外」という区別の対象となるのは、必ずしも国籍だけではありません。

人種や性別などもそうです。

歴史的にオリンピックは人種差別に関する問題を多く抱えてきました。

そしてそれは今なお続いています。

国旗を振って自国を応援する人々(写真:s.yume / Flickr [CC BY 2.0])

幸いなことに、今までオリンピックによるナショナリズムの助長が、直接戦争に発展した例はありません。

でも、国家間の緊張感の高まりにつながる可能性は否定できません。

実際、オリンピックではないものの、スポーツの大会におけるナショナリズムの高まりが、紛争や暴動へと発展した事例は存在します。

1969年サッカー・ワールドカップ予選・エルサルバドル対ホンジュラス戦では、その試合が引き金となって「サッカー戦争」と呼ばれる紛争が起こりました。

また2014年サッカー欧州選手権予選リーグ・セルビア対アルバニア戦では、試合中に観客が乱入し選手を巻き込んだ暴動が発生しました。

このようにスポーツ大会が国同士の争いの火種となったケースは多くあり、国際的なスポーツの大会は非平和的な戦争や事件を引き起こす可能性をはらんでいると言えます。

その中には当然オリンピックも含まれます。

逆に、既に存在している紛争や政治的対立が、オリンピックの大会に持ち込まれたこともあります。

1972年のミュンヘン五輪では、パレスチナのテロ集団が選手村に乱入、対立関係にあったイスラエルの選手11名を殺害し、大惨事となりました。

また、冷戦下の1980年モスクワ五輪では、ソ連によるアフガニスタン占領への抗議として西側諸国が大会をボイコットし、1984年ロサンゼルス五輪では、その仕返しにソ連及び東側諸国が大会をボイコットするなど、オリンピックが利用された事件は数多くあります。

前述のとおり、古代オリンピックでは少なくとも開催期間中は停戦協定が結ばれていて、平和が保障されていました。

それに対し、現代オリンピックは開催中でも紛争がやむことはなく、そればかりか戦争のためにオリンピックが中止された例が5回もあります。

こうした数々の事例を踏まえると、オリンピックを「平和の祭典」と呼ぶことに、違和感を覚えざるを得ません。

もちろん、オリンピックが完全に非平和的というわけではありません。

2018年の平昌冬季五輪では、韓国と北朝鮮がアイスホッケー女子に合同チームで参加し、開会式でも合同行進を行ったことは記憶に新しいです。

これはオリンピックを契機とする韓国と北朝鮮の友好への一歩と言っても過言ではありません。

でもオリンピック後、さらなる進展が見られなかったことから、一過性のものでした。

やはり、平和を掲げるには不十分でしょう。

コラム

オリンピックって裏金賄賂、ホスト国の多額の建設費など、いろんな問題がありますよね。

さまざまな出自を持つ選手が一堂に会して、同じスポーツで競い合えること自体が平和的だという意見もあると思います。

でもそれならば、国別で競うのではなく国籍を越えた合同チームを結成するなど、ナショナリズムが生まれない工夫が必要ではないでしょうか?

国旗掲揚や国歌斉唱、国別のメダル獲得数ランキングなどを廃止することで、少しは平和的であると言えるようになる、という意見もあります。

オリンピックってなんか華やかで大きい盛り上がる大会!とだけ考えてた人もたくさんいるんじゃないでしょうか?

本当の意味で平和的なのかは、考えなければいけません。

次の記事では、メディアがどういう風にオリンピックについて報道してきたか探りたいと思います。

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